
空き缶を売ると、いくらになるかご存知ですか?
ゴミ袋いっぱい拾っても数十円、高くて二百円にもなりません。
私は、小学生のころ空き缶を拾ってお金に変えていました。
「古い新聞ないですか?」そんなことをご近所さんに聞いて回ったこともあります。
いきなりなぜこんな話をするのかというと、私が記者を志した経緯を皆さんにお伝えしたいと思ったからです。
先日「広報とは、マスコミにタダでPRしてもらうこと」と聞き、もしかしたら報道機関に勤める者がどのような気持ちで働いているのか、広報さんはあまりご存知ないのではと感じました。
記者には色々な人がいます。
決して私と同じような人ばかりではありませんが、一人の記者がどうやって誕生したのかを知っていただくことで、より“記者”という仕事を身近に感じてもらえたら、“記者”と向き合う際の参考にしてもらえたら、とても幸せです。
障がい者が家族にいる、ということ。

私の母の姉、叔母は知的障害者です。
「家族に障がい者がいるから不幸せ」決してそんなことはありません。
ただ、私が生まれた約30年前、まだダイバーシティがそれほど進んでいない当時は、障がい者が家族にいることで生活に少なからず制限があったのは事実です。
今では当たり前となった障がい者が通う“養護学校”も、叔母が生まれた頃はありませんでした。
就学するタイミングで奇跡的に県内に設立された養護学校になんとか1期生として入学した叔母でしたが、卒業する段になり “就労先がない”という壁にぶつかります。
40年ほど前は障がい者を雇用する企業も、雇用を義務付ける法律もなかったのです。
そこで叔母の父、私にとっての祖父が立ち上がりました。
「障がい者が働ける職場を作ろう!」
こうして三重県伊勢市に障がい者の就労施設が誕生しました。
施設ができると「うちの子供も通わせて欲しい」という方が続々と集まってきました。
小さな施設ではやっていけません。施設を大きくしようということになり、祖父は資金集めに奔走するようになりました。
25年ほど前の話です。私の記憶があるのはこの辺りからです。
物心ついた頃から、土曜、日曜、祝日…私は施設の資金集めのために休日のほとんどを捧げていました。
冒頭の空き缶拾いも、新聞回収も、この時に行なっていました。
夏休みや冬休みになると、施設の利用者さんと一緒に「箸を袋に入れる」仕事や、「段ボールを組み立てる」仕事もしました。
利用者さんの中には時々暴れたり、ヨダレが止まらなかったり、急に歌い出したりと、街中で見かけないような方も多かったですが(笑)、施設に行くとみんな「なっちゃーん!(山田みかんの本名)」と名前を呼んで喜んでくれるのです。それが嬉しくて、休みは毎日のように施設へ行っていました。
違和感を持ったのは小学2年生くらいからです。どうやら同級生は土日に空き缶拾いをしていないらしいということに気づきました。
土日に「近所の駄菓子屋さん『だるま屋』に行こう」と誘われても私は施設のお手伝いで行けませんでしたし(未だに『だるま屋』の場所を知らない、行ってみたい…)、夏休みに「家族で海へ行こう」と誘われても断らざるを得ませんでした。
“障がい者”という存在を知らない人もいるのだと気づいた時は衝撃でした。
我が家は「一般的な家庭ではない」のだと突きつけられてからは、ずっと「普通の生活を送っていない(らしい)自分」に悩み続けていたような気がします。
そうこうしているうちに、「障害者基本法」が改正されました。
法改正で施設の事務作業は複雑になりました。
祖父は口癖のように「現場の実情を見て法改正してほしい」「国は現場を知らないのではないか」という言葉を繰り返していました。
高校生になっても、相変わらず常に何かを憂いているような日々。机の横に貼った大ファンの妻夫木聡さんの写真が唯一の癒しでした。
当時、世間は「リーマンショック」で大騒ぎ。
経済のことはよくわかりませんでしたが、テレビに映る、働き口を失って街をたむろする日雇い労働者の映像を見て、何か世界的に大変なことが起きたのだろうという認識を持っていました。
そんな時、通っていた高校の先生が「大阪の西成に『炊き出し』に行きます、ボランティアを募集します」とクラスで呼びかけました。
夏休みも冬休みも無償で福祉施設を手伝ってきた私です。
誰かの役に立てるのであればと考え「久しぶりに“箸袋入れ”のお手伝いをするか」くらいの気持ちで、すぐに応募しました。
道路を埋め尽くすように寝転ぶ人々

今はなき大阪名物の「巨大ふぐ提灯」を横目に西成へ降り立つと、カップ酒を片手にあぐらを組んで座っている人や、ヨレヨレのスポーツ紙を片手に競馬談義に興じる人など、とにかく人でごった返していました。
驚いたのは自販機の値段。缶ジュース一本が十円ほどで売られていたのを今も覚えています。
到着するなり、目的の炊き出しを開始します。
リーマンショックの影響で街へ流れ着いた人も多く、公園で作った大鍋2つ分の“豚汁”は瞬く間になくなりました。
夜は暗い街を周り、炊き出しに間に合わなかった人へ手製の“おにぎり”を配りました。
こんなこともありました。
パチンコ店の前で、路上生活に慣れていないのか軽装で寝転ぶ20代くらいの若い男性がいました。
一緒にボランティアへ行った先生が彼へおにぎりを渡し、その後こう呟きました。
「彼、泣いていたね」
2泊3日のボランティア活動を終え帰路につこうとしたところ、一緒にボランティアに来ていた同級生が突然「通天閣に登ろう」と言い出しました。
かなり疲弊していた私は一刻も早く帰りたい気持ちでいっぱいでしたし、「ボランティア活動直後に観光に行く気分になれない…」とも思いましたが、そこは高校生。
すぐに切り替えて通天閣のビリケンさんの前でちゃっかり記念撮影しました。
そして、展望台へ。窓の外にはキラキラした大阪の街。大阪城も見えます。
でも、近くにあるはずの“西成”を探しても見えません。
あんなに大勢が路上で寝ていたのに、街のネオンに隠れて全く見えないのです。
この時に見た景色と気持ちは、今も忘れることができません。
「苦しみ、もがきながら生きていても、上からは何も見えないんだなぁ」と。
そして、強く決意しました。
路上で寝ている人がいることを、地べたを這いずり回って空き缶を拾って生活している人がいることを、国や政治家や富裕層といった社会を動かす力を持つ人に伝えたい。
もっと社会をよくするために、そんな仕事に携わりたい、と。
世のため、人のため、私だけの仕事があるはず。

「マスコミ」や「記者」という仕事を全く知らなかった私ですが、大学時代に縁あって“報道ディレクター”という仕事を紹介してくださる方と出会い「この仕事だ!」とテレビ局に就職しました。
念願の報道局に配属され、刺激的な毎日を過ごしました。
報道局に届くたくさんのプレスリリース。

もしかしたら助けを求める誰かの思いが書かれているかもしれない。見落とさないぞ!
そんな気持ちで一枚でも多く、リリースに目を通しました。
SNSの担当になってからは、届くDMやメッセージ全てに返信しました。
かなりの量で、めげそうになることもありましたが、大事な声を漏らさないために全てに返事を書きました。
「リウマチで足が痛いんです、私みたいな人がいることを知ってほしいです」
たった2行のメッセージにも返信しました。
その2行を取材すると、若い女性のリウマチ患者が“高額な医療費”に悩んでいるという社会課題が見えてきました。今でもライフワークとして取材しています。
その昔から、名もなき記者が皆同じ思いで情報を紡いできたからこそ、私たちは今、戦争のない日本で、様々な公的制度を利用し、便利なものに囲まれて過ごしているのかもしれません。
だからこそ、「マスコミはPRしてくれる媒体」という趣旨の言葉が辛かったのです。
報道されることが、PRに繋がることは理解しています。
また広報活動は無料で大きな宣伝効果をもたらすことも分かっています。
ただ、どうか「マスコミは無料でPRしている」とは思わないでほしいのです。
マスコミなりの基準を持って、記事にするかどうかの判断をしています。
そんな私も、今は記者ではありません。
フィールドは変わりましたが、それでも「社会をよくするニュース」を一つでも多く届けるために、広報さんにも記者と同じ思いを持っていただきたい、と発信をしています。
一つの広報が、社会課題を炙り出し、誰かを救う政策を作るかもしれません。
無料のPRではなく、ニュースを作るために、一緒に広報活動に取り組みませんか?
コメント